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明治の超絶技巧 真葛焼 初代 宮川香山

明治時代の陶芸家、宮川香山という名前をご存じでしょうか?
明治維新後の横浜で真葛釜を開窯、「高浮彫」とういう今までにはなかった超絶技巧で世界を驚愕させた人物です。その作品は、海外で高く評価されエミール・ガレの工房やロイヤル・コペンハーゲンにも影響を与えたと言われています。
真葛焼は2代、3代と引き継がれましたが、昭和20年(1945)横浜大空襲で、工房が壊滅的な被害を受け、同時に3代目の命も奪われ真葛焼は消滅してしまいました。そのため、作品も少なく「幻のやきもの」と呼ばれています。

▶写真は古美術名品「集」47号で特集された記事です。

初代 宮川香山 天保13年(1842)-大正5年(1916)

天保13年(1842)
京都で代々やきものを生業とする家庭に生まれる。父は、真葛ヶ原に窯を築いた名工の誉れ高い長造。
万延元年(1960)
父と兄を亡くし19歳で家業を継ぐ
明治3年(1870)
薩摩の御用商人梅田半之助から、横浜で輸出用陶磁器の製造に誘われ29歳で横浜に移住する。
明治4年(1871)
太田村不二山下(現・南区庚台)1000坪の敷地に真葛窯を創業する。
明治9年(1876)
フィラデルフィア万国博覧会に真葛焼として初参加する。花瓶や香炉に蓮や蟹、蛇や鼠などを彫刻のように立体的に細工する「高浮彫」の技術が高く評価され装飾部門で授賞する。その後も国内外の展覧会や万国博覧会に数多く出品に輝かしい受賞歴を残す。
明治29年(1896) 帝室技芸員に任命される。
大正5年(1916) 75歳で亡くなる。


初代 宮川香山 作品の変遷

開窯当初(明治4年頃-8年頃)

当初、金彩を多用した薩摩焼を制作する。慶応3年(1867)パリ万国博覧会に島津斉彬が出展したことを期に世界から注目され人気があったため、薩摩焼を模倣したような作品を制作をしていた。

精致で立体的な「高浮彫」(明治9年頃-14年頃)

模様を金彩で描く代わりに、動植物を立体的でまるでこに存在するような精緻な細工で表現するようになる。この彫刻的な手法は「高浮彫」と呼ばれ、真葛焼の代名詞と言われる作品となる。万国博覧会出展を契機に海外での人気が高まり、世界に愛されるあこがれの陶磁器となる。

釉薬研究と「釉下彩」の完成(明治15年頃-)

中国清朝の時期を研究し、模倣することで様々な色の釉薬や釉法を開発する。
明治20年頃から陶器から磁器中心に作風を変え、「釉下彩」で花鳥など描いた物が主流になってくる。

「釉下彩」とは
描いた下絵に透明な釉薬をかけ、高温で焼成することで下絵の色を発色させるものこれにより、絶妙な濃淡と奥行きのある表現が可能になった。

伝統的な風情漂う晩年期(-大正5年)

明治29年(1896)に帝室技芸員にも任命され、国内外で高い評価を受けた香山は、大正5年(1916)に亡くなるまでの間、日本の伝統的な風情漂う作品が多く見受けられる。
2代目香山は「故人は西洋向けのけばけばしいものよりも、日本向けの沈んだ雅致に富んだ物の方が得手のようでした」と回想している。
最晩年作である琅玕釉(ろうかんゆう)蟹付花瓶では釉下彩で彩色が施された花瓶に写実的な細工の蟹が装飾されている。高浮彫の細工と釉下彩という香山作品の特徴が凝縮されている。

代々受け継がれた京焼の技法〜仁清・乾山写し

初代・香山は海外向けに陶磁器を制作する傍ら、京焼の名工といわれた父・長造が得意とした野々村仁清、尾形乾山の写しを多く制作しています。
江戸時代を代表する陶工の作品を模倣するだけでなく、そこに独自の解釈や魅力加えて作りあげています。香山自身も得意としており、その作品の評価は高いものでした。

初代 宮川香山の父・長造の仁清写し香炉

どこか似ているかも?真葛焼と薩摩焼の関わり

真葛焼の作品、特に高浮彫の花瓶によく見られるのですが。花瓶の口部分に薩摩焼に似た七宝繋ぎや六角繋ぎ文様を帯状に配した金彩が施されています。鹿児島と横浜距離としてはずいぶん離れています。当時人気のあった薩摩焼を真似たものだろうと思いながらもずっと気になっていました。

薩摩焼の花瓶

真葛焼高浮彫の花瓶

実は、香山は梅田半之助に横浜に誘われる前に、薩摩藩家老の小松帯刀に苗代川焼の改良のため薩摩に来て欲しいと言われ、自身も薩摩行きを決めていました。しかし、小松帯刀の死去により、その話は頓挫してしまったのです。
香山と薩摩焼の関係は深く、香山の横浜行きも江戸薩摩藩邸御用商人であった梅田半之助の誘いであり、大困難の末、開窯したのも半之助の義弟・鈴木保兵衛の助力があったからといわれています。その後も12代沈壽官から焼成済の絵付け用素地を購入するなど取引がありました。また、香山と12代沈壽官が交わした書簡が残っており、上京する沈壽官のために宿を取って香山が会いにいくというような親密さが伺えます。
香山は7歳年上の沈壽官を老台・先生と呼び慕っていたようです。

もし、香山が薩摩に行っていたなら、明治の陶芸界はどのように変わっていたのでしょうか。

骨董舎で展示している真葛焼たち

      

 

参考文献 世界に愛されたやきもの真葛焼
     古美術名品「集」47号

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