骨董舎

白く薄く精巧な器 平戸三川内焼

三川内焼の歴史

その歴史は古く、16世紀末、豊臣秀吉が朝鮮に出兵した文禄・慶長の役に遡ります。平戸藩主・松浦鎮信(まつらしげのぶ)は、帰国の際、陶工の巨関(こせき)を連れ帰り、中野(現在の長崎県平戸市)に窯を築きます。

これとは別に、唐津焼の陶工らが移り住み窯を築いた三川内(現在の佐世保市三川内)が元になっています。
唐津焼は、同じく朝鮮陶工によって佐賀県北部で窯を築いていましたが、領主であった波多氏が豊臣秀吉によって領土を取り上げられたため、唐津焼の陶工らが九州各地に移ってきました。その一つが三川内でした。
朝鮮陶工の一人、高麗媼(こうらいばば)は、唐津焼の中里茂右衛門(なかざともえもん)と結婚し三川内に窯を築いています。

三川内では当初、磁器をつくるための陶石がなっかったため陶器を焼いていました。1633年に巨関の子である今村三之丞が、針尾島で陶石を発見したことにより、白磁の磁器を焼き始めました。
平戸藩は、1637年、三之丞を窯場の責任者兼役人に任命し「御用窯」とし、中野の陶工らも三川内山に移し御用窯の体制が整いました。
御用窯とは、藩の全面的支援により、陶工と窯業を保護し、技術向上など育成しました。上質な陶石をふんだんに使用し藩主のための特別な器や城で使用する器なども作られました。
陶工らは、自身の技術向上に専念し、採算を度外視した作品ができるということです。

三川内焼の特徴

光を通すほどの薄さ

江戸末期から薄い焼きものが作られていました。
光を通すほど薄い器は、職人の技術はもちろん、良質な陶石が欠かせません。蓋付きの器や輸出用のコーヒーカップなどが知られています。

平戸焼らしい唐子と草花の染付が魅力の蓋付カップソーサー

精巧な細工

素地が乾く前に表面をくり抜いて連続した模様を作っていく透かし彫、
動物や植物を写実的に立体でつくる手捻りなど細工物の細かさは驚きます。

白い器へのあこがれ

良質な陶石を使用して作られる美しい白磁の色。
郷愁の李朝白磁をめざした白へのこだわりは、佐世保市の針尾島三ツ岳で網代陶石の発見につながり、天草陶石と調合され白い磁器が誕生します。

現代の三川内焼

現在でも、三川内に窯元が点在し、昔ながらの作陶も受け継ぎつつ新しい作品がうまれています。

今回、お客様から紹介された菓子皿と菓子切りです。
嘉久房窯 今村房の輔さんの作品です。
茶道に使う懐紙と菓子切りをイメージして制作された白磁の器は、釉薬がかかっておらずマットな質感。菓子切りは薄いのに丈夫で使っている陶石が上質なためか磁器とは思えないほど鋭く、生菓子を切る時もストレスなくシュッと切れました。使いやすさとデザイン性を兼ね備えた作品でした。

今村さんの作品は、以前紙コップそっくりの白磁のコップを見たことがあります。その時も面白い作品を作られるなぁと驚いたのですが、今回もまた楽しい作品みせていただきました。

関連記事一覧